震災から10年経っても
「まさかこんなことになるなんて」
昨年の2020年から現在の2021年まで、世界中では今、誰しもがそう思っている。
「まさかこんなことになるなんて」
ちょうど10年前、東北は、日本は、大き過ぎる衝撃を喰らった。
10年前、2011/3/11。自分は高校2年生の終盤も終盤。その日は高校入試の翌日で、採点をする為に高校は休みになっていた。午後からは学校の敷地内に入れるということだった。
14:46、陸上部だった自分は、高校の校庭で部活をしていた。幸い、校庭のど真ん中という「一番安全かもしれない場所」で遭遇した。
立ってられるか分からないほどの地震と、見たら向かいの校舎は窓ガラスが激しく波打っている。少し落ち着いたと思ったら、校舎にいた先生方が出てきながら大きな声で「校舎から離れろ!校庭にいけ!」と叫ぶ。茫然としたまま生徒が集まり、寒いからと安全が確認された体育館に誘導された。
先生方が生徒を車で送るとの事で、自分はこれまた幸いにも16時過ぎには自宅に帰ることが出来た。(裏の山道で帰ったので、渋滞には巻き込まれなかった)
自宅はマンションだ。大きく揺れ、ありとあらゆるものが倒れ、落ち、壊れていた。両親が公務員だったので、避難所の設営のために不在。少しずつ日も暮れて暗くなってきており、どうしようも無い。一人っ子だったので、とりあえず貯めていた少しのお金を持って母校の小学校へ向かった。
その日の夜は、雪が降った。
小学校の体育館で過ごしていると、周りは布団やら毛布やら持ってきている。「あ、持ってきてよかったのか。俺、このままじゃ寒いな」と思った。
水を運ぶ作業を手伝い、物資を受け取る。さすがに夜も更けて眠くなっても寝付けない中、近くの人がつけていたラジオで「仙台市荒浜で、何百もの死体が、、、」と流れた。「は?夢だろ。ハハ、これ悪い夢だろ。」と思った。
ガラケーで、その数日前に発売したEXILEのアルバム「願いの塔」を狂うように聴いた。アルバム収録曲「OneWish」は、その前年に起きたハイチ地震の復興支援チャリティーソングで、すごくよく聴いた。しかし予備バッテリーを持っていなかった当時の自分は、歌を聴くのをやめ、ケータイの電源を入れたり切ったりしながら、情報を仕入れたり友人と連絡を取り合った。
制服とジャージを重ね着していた自分は何とか夜を過ごし、翌日には避難所の設営から少し帰ることが出来た父が迎えに来た。
数日が経った頃、自宅マンションに水と電気が戻り、ガスが使えるのを心待ちにしていたのと同時に、地元の友人達と母校の中学校へボランティアへ行った。ただ、そこら辺の高校生が行ったところでやることは少なかった。数日通ったころに「運動不足が心配だ。何かやってくれ。」と希望があり、高校で習っていた「ラジオ体操」を組み込んだ。その後、自分の部活が始まった後も日課になっていたらしい。自分も誰かの役に立てたのだろうか。
10年経っても、あの日の事は鮮明に覚えている。
もしあの日、学校が普通にあったら、部活がなかったら、家に居たら、どこかに出掛けていたら、避難所に行くことが出来ていなかったら、、、今も生きてることに感謝しかない。
毎年同じ話を誰かとするし、その誰かの話も聞く。
だから10年経っても、鮮明に覚えている。
10年経っても、誰も、何も変わらない。
前も向いて歩き続ける人や、今も家族が戻らない人もいる。怪我もしてない自分は、この震災で生きてることにラッキーと思わずに、重く感じ、学ぶことが大事なのではないか。この時期は毎年、そう思わされる。
サンドウィッチマンさんに
— 米田裕一 (@yonedahirohito) 2021年3月8日
震災から10年という節目なので
宮城と中継しますとお伝えしたら
「ほんとは
節目なんてないんですけどね
ただ10年たっただけ
また明日が来るだけ」
と言われた。
本当にそうだ。
区切りなんてない。
これまでも、これからも続く。
節目とは身勝手な表現だった。
節目なんて無く、ただ10年経っただけ。
今年も来年も、明日も明後日も。
震災から10年経っても、今生きてることに感謝しながら、目の前の大事な家族や大事な友人と、皆でこの世を生き抜こう。